完成はない。ただ「流れ」がある

「GO FOR KOGEI」総合監修の秋元雄史が、今年新型コロナウイル感染拡大のため開催中止となった展覧会に出品予定だった作家に会いに行く特別企画第2回(第1回の記事はこちら)。今回は福井県武生在住の美術家・八田豊さんを訪ねます。八田さんは御歳90歳。40代で視力を完全に失いながらも、楮をキャンバスに貼り付けて行く「流れ」シリーズを現在も精力的に制作されています。「作品が僕に説教してくれた」と語る八田さんの、作品制作への想いを中心にうかがってきました。

具象と抽象。「何を描くか」の発明

 

秋元:本日は八田さんの美術に対するお考えをお聞きしたいと思っています。時系列にうかがっていけたらと思うのですが、まずは大学を出られたあたりのお話からうかがっていけたらと。

 

八田:僕、中学校くらいからコーヒー飲んでたんです。アメリカのコーヒー。もちろん、日本は戦争中ですけど、アメリカで収容されていた何千人かの日本人にはアメリカ軍が食料輸送していたんですね。同級生に支給を受けていたやつがいて、金沢での学生時代も日が暮れた頃にみんな僕の学生寮の部屋集まってきて、枯れ枝を集めて火を焚いてコーヒーを淹れていた。貧乏なくせに、なぜかコーヒーは飲めていたんですよ。不思議でしょう。

 

秋元:そうですか、当時コーヒーを飲むなんて日本では一般的な習慣ではなかったでしょうから、ハイカラな学生時代ですね。金沢美術工芸専門学校(現 金沢美術工芸大学)では洋画科に進んでおられますが、その頃はどなたに教わっていたのですか?

 

八田:昔、金沢では学校が9月始まりだったんです。僕は金沢美術工芸専門学校の試験に合格していたのに、なぜか「八田くんは一年後に来い」って言われたんです、「もう一回受け直せ」と。合格させといて何ていい加減なんだと、次は白紙で出しても入学させてくれと怒っていたら、半年後の4月の試験で二回生として入学できました。だから一回生の鴨居玲さんは6ヶ月先輩ですね。その時の先生は高光和也さん(※)ですとか。

(※)高光一也…石川県金沢市出身の洋画家。金沢工芸短期大学名誉教授。(1907-1986)

 

秋元:あぁ、日展系の重鎮ですね。ある種オーソドックスというか。ちなみに、八田さんが学生の頃は先生方の話を素直に聞くような生徒だったのですか?

 

八田:いえ、そもそも誰もまともに学校行ってません。油絵の時間になると、モデルの女性の裸が見れるからとゾロゾロ集まってきたくらいで(笑)。あとは一切授業を受けていません。ただデッサンコンクールに作品を出さないと進級できなかったので、それだけは行ってました。

 

 

秋元:そのときの八田さんの成績というのはどうだったのでしょう?

 

八田:順位の真ん中から下はデッサンやり直さなきゃいけないんですけど、僕は真ん中から上の方にはいました。

 

秋元:ではデッサンがお上手だったんですね。そつなくこなされていたと。

 

八田:こなすも何も、デッサンはかなり厳しかったので徹底的にやっていましたね。

 

秋元:八田さんは抽象的な作品を制作されている印象がありますが、当初は写実的なものも描かれていたのですね。その頃ご自身の中には、「具象」や「抽象」といった垣根は存在していましたか?

 

八田:垣根も何も、きちんと描かないと「下手くそ」と言われるし、きちんと描いたら描いたで今度は「見たまま描くなんて、子どもでもできると」と言われる。どちらにしてもボロクソに言われるので、何が本当なのかわからなかったですね。

 

秋元:では、八田さんの絵が変わってくるのはどのくらいの時期なんですか?

 

八田:20歳の半ばでしょうか。僕の描いた絵を、キャバレーに貸していたのですが、その絵がダンスをやってる拍子か何かで燃えたらしいんです。その時に「これを幸いに写実的な絵をやめよう」と思って。家の裏で、これまでに描いた写実的な絵を山積みにして、焼いたんです。

  • 「群像」(福井県立美術館所蔵/1957年)

秋元:ご自身で作品を燃やされたというのは、「具象的なものと決別する」という意味で?

 

八田:そもそも物を見て描くから「具象」という区分の仕方も気に入らないんです。「物を見て描く」ということは、「物を見ないと描けない」という自己否定の上に立っていわけですから。絵を描くということは、「具象/抽象」というものとまた違う、基本的に何を描きたいかを発見する、発明しなければならないということなんですよね。
そんなことを口では言いながらも、何かを見て影響を受けている自分の情けなさを完全に否定するために、これはもう焼却するしかないと考えたわけです。

 

「初め」から、「自分」から始める

 

八田:そのときに、もう日本も去ってしまおうと思ってヨーロッパに向かいました。ヨーロッパ一周。最初はロンドンからドーバー海峡を渡って、オランダに入って、次にドイツ、そしてフランスに。

 

秋元:それは武者修行のようなお気持ちで?

 

八田:いえ、遊び半分です。あとは藤田嗣治のような素晴らしい作家になりたいと思って。でも、藤田嗣治どころか、ルーブル美術館に行ったら「絵」が全然ないんですもん。ジョコンダの絵が一枚あったくらいで、あとは全然面白くなかった。ルーブルにあるものってイタリア人の作家ばっかりだし、フランス人は何を描いていたんだと。

フランスは良くないなと思って、その後スイスに行ってからイタリアに渡ります。ところが今度イタリアではキャンバスに描いた絵なんて全然ない。全部、壁か板。その時に「最後の晩餐」を見て衝撃を受けましたね。ミケランジェロは英雄だなと。でもミケランジェロって、パトロンに反発して喧嘩しながらも支援を受けていたでしょ。イタリアというか、ヨーロッパってなんとも不思議な国だなぁと思いましたね。

秋元:イタリア美術の「厚み」のようなものをそこで感じられるわけですね。

 

八田:でも(当時教員を務めていた学校の)校長に「帰って来い」と言われて、仕方なく帰ってきました。辞める手続きも何もせず黙ってヨーロッパに行ったので、まぁ当然と言われればそうなのですが。笑

 

秋元:日本に戻って来られてから、かなり精力的に色々な公募展に出品されていますよね。

 

八田:ヨーロッパの油絵を見てきて、今までのものはすべて捨てて、改めて全部初めから、自分で始めないといけないと思ったんです。アフリカ人はどこから美を求めていったのだろうか、なんてことを考え出したりして。

そこで僕が始めたのが「棒」ですよ。ギ、ギ、ギ…と一本ずつ棒を描いていく。それが次に丸、丸、丸…と展開していく。

 

秋元:この「丸」というアイディアは、どこから出てきたんですか?

 

八田:ベニヤ板に鏨(たがね)で傷をつけていく作業を中心に向けてやっていくと、外側が自然と円になりますよね。そこから生まれてきました。最初はフリーハンドの円だったんですけど、どうもキチッとやらないと性分に合わないもんですから、いつしか幾何学的なものになっていました。
続けてうちに、どうやったらもっと面白くなるかなと考えて、そこで出てくるのが金属板です。

 

秋元:金属板を削る。これは物凄く几帳面というか、かなり根気がいる作業ですよね?

 

八田:そうです。一日やると目がボウっとなってくる。それでもヨーロッパに行ってからは、もう取り憑かれたみたいに、夜通しで制作していました。

  • 「作品66-66A」 (福井県立美術館所蔵/1966年)

  • 「刻まれた白」(福井県立美術館所蔵/1967年)

手仕事の「揺れ」と「息遣い」

 

秋元:八田さんの場合、「何かをイメージして作品をつくる」というよりも行為そのものの中から作品をつくっていく」という印象を受けます。このときのモチベーションというか、創作を突き動かすものというのはどの辺りにあるんでしょう?ギリギリと刻み込む、感覚そのものなのでしょうか。それとも円が出来上がって行くときの達成感のようなものなのでしょうか?

 

八田:やっぱり、基本的には幾何学的なものや数学的なものが好きだということがあると思います。けれど、今度きちんとしすぎているのもまた面白くない。写実的な物を描くときと同じ結果になるわけです。もっとフリーに動いていく方がいい。だから円をグーッと動かしていく時期もありました。

 

秋元:なるほど、一見システマチックに見えるけれど、だからと言ってそれがシステムの中で自動的につくられるようなものではつまらないと。そこに何か「揺れ」というか、ギリギリとやっている「息遣い」のようなものが反映されていないと、ということですね。

ちなみに、この頃には全国的に活躍されていますが、1970年あたりに一度体を壊されていますよね?

 

八田:はい。血を吐いてしまったんですよ、胃潰瘍で。ひとつに「ものが見えない」ということが非常にショックで、イライラが溜まっていたんですよね。

 

秋元:あぁ、すでにこの頃にはもう視力が…?

 

 

八田:ボヤッとは見えたりはしていましたが。ビタミン注射をしたりもしたけど、回復しなかった。

 

秋元:先生が視力が落ちていることを自覚され始めたのってどのくらいの時期なのでしょう?

 

八田:「ゴールデン・キララ」という作品を最後に、しばらく彫るのをやめていたんです。金属板を彫るのって、すごく目が疲れるんですよ。ここにあるものが、手前に浮かび上がって見えくるというか。

 

秋元:なるほど、焦点が定まらなくなるんですね。作品制作自体が、目を酷使する作業でもあったと。それでもなお金属板を彫っておられたというのは、あの「ガリガリとやっていく感覚」というものが、当時の八田先生には必要だったというか、求めておられたものだった、ということでしょうか。

 

八田:やはり手でやらないと。「コンピューターを使えば、丸を重ねる作品なんて簡単だ」なんて言う人もいましたけれど、何を言ってんだと。手で丸を彫って重ねていくと、木目のように、ボウっとモアレ(※)の現象が起きてくるんですよ。当時はまだ「モアレの美学」なんてものは誰も提唱していなかったですけどね。

(※)モアレ(モワレ)…干渉縞ともいい、規則正しい繰り返し模様を複数重ね合わせた時に、それらの周期のずれにより視覚的に発生する縞模様のこと。

 

秋元:確かに、空間の位置が分からなくなる不思議な感覚というか、独特の「奥行き」のようなものが生まれていますよね。

  • 「ゴールデン・キララ」(福井県立美術館所蔵/1968年)

視力を失って、見えてきたもの

 

八田:最終的に、80年代には目が全く見えなくなります。アメリカに行っていた時のことです。ロサンゼルスの繁華街をワーッと人が歩いていて、道の反対側にさえ渡れない。そんな状況に痺れを切らして「今だ!」と飛び出したときにデカイ外車と接触しましてね。外車もひっくり返って、僕もひっくり返って。周辺にいた人が皆集まるほどの大事故だったんですけど、不思議なことに体はなんともないんです。でも、起き上がったときには、視界が真っ白になっていました。「あぁ、もう終わりか」って

 

秋元:そうだったんですね。けれど同時に、80年代に入ってからかなり実験的なことに挑戦されているというか、ある意味「転換期」を迎えておられますよね?シルクスクリーンや立体作品もやってみられたり。後半になってくるとこれまでと全く趣向が異なる、キャンバスに絵の具を垂らされるような作品も出てきます。

 

八田:要するに、目が見えなくなって彫る仕事はできなくなったので辞めちゃったんですよ。日本に帰ってきてから医者に見てもらったら「これは網膜色素変性症という大変な病気だ」と言われて。今は何も見えません。明るいか暗いかが分かるだけです。

 

秋元:しかし、視力を失われた頃から、八田さんが「色」を使い出されるというのは、一体どういうことなんでしょう…?

 

  • 「流れより」(1990年)

八田:「青もってこい」「赤もってこい」と言っては、下屋に登って、絵の具をキャンバスにバーっと開ける、という仕事をしてました。

 

秋元:でもご自身では「色」は見えていないわけですよね?それはもう記憶の中での作業というか。

 

八田:そうです。そこから生まれてきたのが、その後も続く「流れ」というタイトルです。当初は、半ばヤケになって、バーっと絵の具をぶちまけていたんです。けれど、その姿を女房が黙って見ている。何も言わずに、ずっと見ているんです。見られていると、もうちょっと丁寧にやらないといかんなと思うようになって。その内に、チョロンチョロンと、静かに流れて行くの絵の具の音が分かるようになってきたんです。まっすぐ流れているようでも、斜めに行ったり、交差したり。そうなっていることは事後的に触ってみて分かることなんですが、なんとも面白いなぁと。

 

秋元:では制作中に頼りにされているのって、絵の具の「音」だけなんですか?

 

八田:はい。音だけです。

 

秋元:音を聴きながら、流れを想像していると。

 

八田:いや、想像するも何もない、ただ「流れる」のです。

 

秋元:ただ、流れる。ちなみに全てご自身で制作されていたのですか?それともどなたかにサポートしてもらって?

 

八田:全部自分でします。人に頼ってやるのではなくて、全部自分で、手探りで。

 

秋元:なんというか、かなり繊細な世界ですよね。私はもっとある種の「アクション」のようなものの中であのシリーズを制作されているのかと思っていました。

 

八田:絵の具をぶちまける作品というのは、ニューヨークなんかでもやっていましたけれど、それでは面白くない。僕のはそーっとそーっと、丁寧にやるんです。

「即」だけがある世界

 

秋元:その後、現在の楮(※1)を使った作品シリーズを主に制作されていますが、これはいつ頃からなのでしょう?

(※)楮(こうぞ)…樹皮は強靭な繊維を持ち、最高級の和紙を作る材料として知られる。

 

八田:1983年から「紙展(※)」というのを始めたんですよ。それというのが、ゴミの焼却場に紙のロールが山積みされていたんですよ。それを取ってきてやったのが始まりで。和紙を紐解いて撚って…でもやっていくうちに紙パルプってすぐに切れて弱いなと。そのうちに天然繊維である「楮」に行き着きます。紙漉き屋のおばちゃん達の丁寧な仕事から色々と教わりながら。

 

秋元:そういった経緯だったんですね。ちなみに楮の作品シリーズのタイトルも、絵の具を流す作品シリーズから変わらず「流れ」というタイトルを題されているのはなぜなのでしょうか。

 

八田:自分の作品が、静かに静かに、僕にお説教をしてくれたんです。つまりは「流れ」なんだと。
僕は神様というものは信用しないタチなんですけど、それでも不思議なくらいにみんなが僕を支えてくれて、こうして生きている。お世話になっているなぁって。俺ってバカなのか何なのかわかんないなぁと。それを言葉で表すとするなら「流れ」になるんです。

 

秋元:あぁ、「自分以外のものの中で生きている」という感覚でしょうか。ちなみに、絵の具の「流れ」シリーズでは、絵の具が流れて行く「音」を頼りに制作されていらっしゃいましたが、楮の作品の場合、それが貼り付けて行くときの指先の「感覚」になるのでしょうか?

 

八田:そうです。指先一本です。
楮をここに置くでしょ、右手で確認しながら、左手で抑えて行く。そして最後にワニスを塗る。

秋元:八田さんの作品には独特の繊細さがありますよね、非常にキッチリしている。適切な言い方ではないかもしれないけれど、まるで「見えている」みたいに作られているというか。ちなみに、視覚というものに依らずに作品が「できた」と思えるのはどんな瞬間なんでしょう?

 

八田:「できた」というよりも、僕の場合はスーッといったら、それだけなんです。

 

秋元:もはや「色即是空(※)」の世界というか、「即」だけがあるというか。それはもう純粋経験みたいなものですよね。

(※)色即是空…般若心経の一節。この世の万物は形をもつが、その形は仮のもので、本質は空(くう)であり、不変のものではないという意。

 

八田:今90歳ですけれど、手で覚えた、というか体が覚えたひとつの行動というか、それは人間結構強いものですよね。それは「頭脳」とはまた違ったものなんでしょうね。

 

秋元:美術が囚われているものをどう乗り越えていくか、という現代アートのひとつのテーマを、八田さんの場合視力を失われていく中で逆に引き寄せておられるように感じます。再現性だとか、何かを捉え直すという事自体が無駄だと。私自身「ものをつくる」という事を、今回改めて考えさせられました。
貴重なお話をありがとうございました!

 

 

PROFILE

八田豊(はった ゆたか)

1930年福井県鯖江市生まれ。越前市在住。1951年金沢美術工芸専門学校(現 金沢美術工芸大学)美術科洋画専攻卒業。美術教師を勤める傍ら芸術活動をし、土岡秀太郎に師事。油彩画から60年代よりパルプボード、金属板など様々な素材による表現を展開し、1965年「第4回北陸中日美術展」大賞受賞のほか、数々のコンペで賞を受賞。幾何学模様を刻むカーヴィングなど独自の手法で国内外から高く評価される。80年代に視力を失った後は越前和紙の原料、楮を使用した作品「流れ」シリーズを制作。また国内外の作家を招集し、様々な素材に着目した現代美術展「国際丹南アートフェスティバル」(1993~)を毎年継続開催している。

柳田 和佳奈(ライター/有限会社E.N.N.)

1988年富山県黒部市生まれ。富山大学芸術文化学部 文化マネジメントコース卒業。金沢で地元情報誌の編集者を経て、現在は有限会社E.N.N./金沢R不動産でローカルメディア「reallocal金沢」の運営などをしている。